映画の世界へ誘う力がある 沖縄最後の映画看板絵師「文化守りたい」

作品が持つ世界観と魅力を一枚絵の中に表現し、目を引く大きさで多くの人にアピールする映画看板。その姿が映画館から見られなくなって久しいが、“沖縄最後の映画看板職人”と呼ばれる喜名景昭さん(66歳)は、自身が学んだ技術を伝え、「映画看板」という文化を守らんと、講座を開き後進の育成を行っている。文化と技術を伝え、残していくこと。その思いと情熱を喜名さんに聞いた。
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単館系映画の多彩なラインナップで知られ、沖縄国際映画祭や様々なライブの会場ともなる沖縄県那覇市の桜坂劇場。そこで運営される「桜坂市民大学」で、喜名さんは「映画看板職人の絵描き塾」を開講している。
「教えるようになってもう10年になります。沖縄で最後の映画看板師になったから、先輩に預かった技術を次の世代に伝えてバトンタッチしないといけない。映画看板は日本中から無くなっていますが、僕は40年映画館にお世話になったから、恩返しをしない訳にはいきません」。
喜名さんは桜坂劇場の前身となる映画館(2005年閉館)で、40年に渡り映画看板を描き続けてきた。自身の半生、当時の仕事ぶりを次のように云う。
「僕はどちらかと言うと油絵を描いていたのですが、小さい頃に映画看板の大きさに憧れて、自分も大きいのを描きたいと思って二十歳前にこの世界へ入りました。
もう時間との戦いでしたね。上映まで1週間しかないのに、当時は2本立てでしたから、2本描かないといけない。で、その看板を描いて半分ぐらい仕上がったところで映画が変更、なんていうのが結構あって(笑)。でも、何度もそういう経験をしましたが、それがいま考えると技術を高めるんです。速さであったり、どこを省いたらいいかということであったり」。
ネットで様々な情報が容易に得られる現在と違い、当時は資料自体が少なかったため、その点も苦労を余儀なくされた。しかし描き手の想像力が加わり、構成や雰囲気を出すため工夫をこらして描き上げられた看板は、ポスター以上に映画の世界へ誘う力を持つ。
「当時はコピー機もないし、だから小さな写真に虫メガネを当てながら描いていました。映画看板の面白さっていうのは、見る位置、距離によってタッチが全然変わって見える。そこに深さがあるんです」
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