三上博史、不安も感じた40代を経て、「自分の居心地がいいことしかやっていない」現在
高校在学中の15歳のときにオーディションで寺山修司に見出され、俳優としてのキャリアをスタートした三上博史。自身の原点ともいえる寺山の作品を演じ、歌う『三上博史 歌劇 ―私さえも、私自身がつくり出した一片の物語の主人公にすぎない―』が2024年1月に上演される。現在は東京を離れて暮らし、「自分の居心地がいいことしかやっていない」と笑う三上が、寺山修司への思い、そして自身の生き方について語った。
【写真】大人の男の色気があふれる三上博史
◆映像作品は限定されるから、自由があまりない 舞台はよりイマジネーションの世界
寺山修司没後40年記念公演/紀伊國屋ホール開場60周年記念公演として上演される本作は、寺山の世界の心髄をつく数々の名作を三上が熱唱・熱演し、他に類を見ないステージ作品を作り上げる。
三上が寺山と過ごしたのは15歳から20歳までの5年間。高校生だった当時は、「自分でガチガチにレールを作っていて、高校に入った時点から、大学に入ってきっちり4年で卒業して、高給を取れるサラリーマンになると決めていた」という三上だが、寺山と出会い、その人生が大きく動き出す。
「新聞に映画『草迷宮』の主人公を募集する案内が載っていたんです。僕は高校1年から就職するまでの7年間でやりたいことを全てやってしまおうと思っていたので、オーディションに行ってみようと。それでオーディション会場に行ったら、紫のあかりが当たる中で裸の女性が踊っていて…(笑)。座ってそれを見ていたら、後ろからカランカランと足音が聞こえてきたので、振り返って睨んだら、寺山さんでした。睨んでしまったので、まずいと思って顔を戻したら、後ろから『君はオーディションに来たの? 名前と番号を教えて』と(寺山に)声をかけられて。多分、あの一瞬で、(オーディションに受かったことが)決まったんだと思います」。
その後、三上は、1987年公開の映画『私をスキーに連れてって』で脚光を浴び、数々のドラマに出演。一世を風靡すると、人気俳優に上り詰めた。一方で、寺山修司没後20年記念公演『青ひげ公の城』や2004年上演の『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』など、三上は舞台でもその存在感を発揮している。
舞台に出演する魅力を聞くと、「映像作品は限定されるから、自由があまりない。例えば、女性の役を演じるにしても、映像だとリアルになってしまうのでぶっ飛ばせないんです。でも、舞台なら『僕は女性です』と言ってしまえば女性になれる。そうした想像力の幅はやっぱり舞台の方がある。僕はとにかく縛られたり、限定されたりするのが嫌いだからどこにでもいきたい。そういう意味で、舞台はよりイマジネーションの世界だと思います」と答えてくれた。
「自由であること」は、三上の生き方にも反映している。それは、彼が活躍を続ける秘訣にもなっているのではないだろうか。
「あえてそうしてきたわけではないし、逃げるわけではないけれども、例えば家庭や子どもといった縛るものを全て避けてきたように思います。だから、守らなければいけないものがない。自分だけ。ただ同時に、やっぱり自由は簡単には手に入らないものだとも思います。覚悟が必要。そうした生き方はすごくリスキーではありますが、まあ、いいかと(笑)」。