相川七瀬、長くて重いデビュー30周年 2度目の武道館は「過去、未来、現在、全部を楽しんでもらえるライブに」

――1995年にデビューし、デビュー曲「夢見る少女じゃいられない」で一気にスターダムを駆け上がられて、当時は戸惑いなどはありませんでしたか?
相川:皆さん「夢見る少女じゃいられない」がすごく売れたように思われているんですけど、実は最初はそんなに売れなくて。私の曲がある程度浸透して爆発したのは、作品で言うと96年7月に出した1stアルバムの『Red』がきっかけだったと思います。それまでのシングルは爆発的に売れてるわけでもなくてセールスのトップテンの中で動いていた感じでしたが、『Red』がたくさんの方に聴いてもらえて。そこに入っていたので、デビュー曲も後からすごく認知度を上げていった形なんです。だから、自分の曲がすごく聴かれていると思い始めたのも『Red』を出してからです。デビューしてからたくさんテレビにも出させてもらっていましたけど、ヒットしているという体感は、あまりなかったんですよね。
――「LIKE A HARD RAIN」「BREAK OUT!」とヒット曲を連発されているイメージだったのですごく意外です。
相川:そもそもデビュー曲も、当初は『バイバイ。』(2ndシングルとして1996年2月にリリース)の予定でした。織田さんも私もそのつもりでいたら、織田さんがもう1曲書いてくれて、それがのちの「夢見る少女じゃいられない」で、タイアップが決まって急遽デビュー曲になったんです。
――そうして30年歌い続けてこられましたが、30年の中での転機を挙げるとするとどんな出来事になりますか?
相川:細かい転機はいっぱいありますが、大きな転機はやっぱり2011年3.11の震災です。時間の尊さや、ステージに上がることは当たり前じゃないんだなというのをすごく感じて、あそこから全てが変わりました。
あの年は、私の今のベースになっている、大学で研究するテーマにもなった古代米「赤米」と出会ったり、仕事の価値観が変わって、人のために歌うということを考え始めたりと、ミュージシャンとしてというか、人間として生まれ変わる年でした。
――特に大きく変わったことはどんなことでしょうか。
相川:被災地に行って歌わせてもらうことがあったんですけど、私の曲って人を盛り上げることはできるけど、あらためて考えて痛みの中にいる方々に、寄り添える曲が少ないなって思ったんです。それって歌手としてどうなんだろうと思って作ったのが「ことのは」という曲です。そこから静かな和のメロディーみたいなものをとにかく探求し始めました。今まで自分は自分のために歌ってたんだな、すごく自分本位だったんじゃないだろうか、そういうことをいっぱい考えたというか。何のために歌ってるんだろうとすごく考えたし、どうなっていきたいのかとすごく考えるようになった。それは自分をすごく成長させてくれたと思います。
赤米に出会って、それがきっかけで大学に行ってみたいと思うようになって。2011年というのは、私の中にいっぱい可能性の扉があったとしたら、それを全部ノックしたというか、そんな年だったなって思います。
