ジェームズ・キャメロン、『ターミネーター』のような映画は「今は作れない」
度肝を抜かれる撮影方法と革命的な映像表現で世界中の人々を魅了し、現在進行系で映画史に名を刻み続ける映画『アバター』シリーズ。世界歴代興行収入ランキングでは、『アバター』が第1位、『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』が第3位に君臨しており、興行面でも批評面でも高い評価を獲得している。そんな大成功を収めている本シリーズ第3作目となる『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』が19日に公開。来日したジェームズ・キャメロンに話を聞くと、『ターミネーター』(1984)のような映画は「今は作れない」と興味深い考えが飛び出した。
【写真】キャメロンが「“ちゃんと終わりに向かう物語”だと理解して」だと語る『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』場面写真
■「次があるかどうかは分かりません」
本作の舞台は『ウェイ・オブ・ウォーター』から数週間後。長男ネテヤムを亡くし、悲しみに暮れていたジェイクたちサリー家。しかし人間たちはパンドラへの侵略を続行し、さらに同じナヴィでありながら、パンドラの支配を目論むアッシュ族のヴァランが、人類と手を組んで復讐を果たそうとしていた。あらゆる種族のナヴィと人間を巻き込んだ、炎の決戦が始まる――。
もともと『ウェイ・オブ・ウォーター』と『ファイヤー・アンド・アッシュ』は、1つの物語だった。「最初は1本の映画に詰め込もうとしたのですが、うまくいきませんでした。なので脚本を2つに分け、少し構成を組み替えて、2本の映画にしました。結果的にどちらも3時間を超えてしまいましたが(笑)」とキャメロンは笑う。
とはいえ、クリフハンガーはせず、着地点を見据えた物語になっていると明言。「観客の皆さんには、本作が“この物語の完結編”であることを知っていただきたいです。『また続くんでしょう?』と思われがちですが、第一に本作で興行的に成功しない限り、次があるかどうかは分かりません。そして、もし続編を作るなら、それはまた“新しい物語”の始まりになります。なので皆さんには、これは“ちゃんと終わりに向かう物語”だと理解していてほしいです。どこにも着地しないまま終わるような物語ではありません。わたしたちはカタルシスにたどり着くように、一生懸命映画を作りました」と話す。
ネイティリ 映画『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』場面写真 (C)2025 20th Century Studios. All Rights Reserved.
サリー家は、本作でさまざまな課題に直面する。長男ネテヤムの死を受け、ネイティリは「スカイ・ピープル(人間)は全員悪で、滅ぼさなければいけない」とレイシスト寸前の考え方を持つようになる。しかし子どもたちの親友的存在で、サリー家の養子であるスパイダーは、幼い頃にパンドラに取り残された人間の子ども。憎しみや悲しみが生む葛藤や矛盾に、今回サリー家は向き合わなければいけない。
「もし観客の皆さんがネイティリとスパイダーのことを好きであれば、この問題が解決してほしいと願うはずです。彼らがこの状況をどう乗り越え、どう修復するのかを見たいという欲求が生まれるはず。知っての通り、わたしはバッドエンドにしないタイプの人間です。どうやって問題を解決していくのか――ここが映画の旅路になっています」
本作は“暴力と悲しみ”が大きなテーマになっている。キャメロンは「物語における“火”は、暴力や憎しみを象徴していて、それが“悲しみの灰”につながることを象徴しています」と語り、今回から登場するアッシュ族の重要性についても話した。火山帯に住むアッシュ族は、火山の炎で故郷を奪われたことから、エイワ(パンドラの女神)を憎んでいる。
アッシュ族のリーダー、ヴァラン 映画『アバター:ファイヤー・アンド・アッシュ』場面写真 (C)2025 20th Century Studios. All Rights Reserved.
「物語の中で、キャラクターたちが喪に服したり、悲しみの期間にいることを表すために、わたしたちは彼らの鼻筋に灰の筋を付けていました。しかしアッシュ族は、体中に灰を塗っています。それは自分たちの土地を破壊され、無力さを味わった瞬間から、もう一度力を取り戻したい思いを表しているからです。ある意味でアッシュ族は悲しみを武器に変えてしまっていて、本質的には加害者になってしまっています」
「ロアクがナレーションで『憎しみの炎は、悲しみの炎を残す――』と言います。これがテーマの一部になっていて、本作では、悲しみや喪失、トラウマが今度は憎しみや暴力につながり、循環してしまう…といった点を描いています。このような“循環”は、歴史の中でも、今のわれわれの現実世界でも起きています。なので『ファイヤー・アンド・アッシュ』では、ある種、<どうしたらこの循環を断ち切れるのか?>という問いを投げかけているんです」
正解のない問いに向き合う上で、キャメロンは「暴力はいつ必要なのか?」について考えるようになったという。その結果として、撮影したにもかかわらずカットしたシーンもあったそう。

