〈高橋ヨシキの最狂映画列伝〉Vol.3 恐怖と混沌の地獄めぐり! 『ジェイコブス・ラダー』は地獄映画界のトップランナー
アートディレクター・映画ライターの高橋ヨシキによる連載〈高橋ヨシキの最狂映画列伝〉。第3回は、ベトナム帰還兵の悪夢を描いた映画『ジェイコブス・ラダー』(1990)を取り上げる。同じく地獄めぐりをテーマとした『ブレインストーム』(1983)を足掛かりに、本作で用いられた意識理論と斬新な造形を解説しながら、地獄映画の系譜を考えていく。
【写真】ベトナム帰還兵の地獄めぐりを躊躇なく映し出す『ジェイコブス・ラダー』フォトギャラリー
■グロフの「意識の作図学」に基づく地獄表現
『2001年宇宙の旅』『未知との遭遇』などを手掛けたSFXスーパーバイザーのダグラス・トランブルは、自身の監督作『ブレインストーム』(1983)における「デス・テープ」の場面を、スタニスラフ・グロフの提唱した「意識の作図学」に基づいて演出した。「意識の作図学」はLSDによるサイケデリック体験を用いた一連のセッションからグロフが展開した理論で、無意識や出生時のトラウマ的な体験を通過してトランスパーソナルな領域へと至る「意識の旅=トリップ」である。これは心地よく美しい状態から始まり、地獄のような恐怖や混沌を経て、最終的には神秘的な合一、宇宙や生命そのものと一体化する感覚を獲得するまでの過程を4つのステップに分けたものだ。
『ブレインストーム』のクライマックス。主人公マイケル(クリストファー・ウォーケン)は、共同研究をしていた科学者リリアン(ルイーズ・フレッチャー)が自らの死の瞬間の意識の変遷を記録した「デス・テープ」を追体験する(『ブレインストーム』は他者の体験そのものを記録・追体験できるガジェットをめぐる物語である)。ダグラス・トランブルは特撮技術を駆使して、死の瞬間の「意識」そのものが、記憶領域に無数に浮かぶ「思い出の泡」を通過し、苦痛と恐怖のビジョンをくぐり抜けた末に、抽象的でありつつ伝統的な天国表象とも通じるニルヴァーナへと飛び立つさまをグラマラスに描き出したが、そのロードマップとしてグロフの「意識の作図学」が援用されたのである。
『ブレインストーム』(1983) 写真提供:AFLO
残念なことに『ブレインストーム』の「デス・テープ」の地獄めぐりのシーンは多くがカットされてしまった。動物の内臓で構成された不潔で吐き気を催すようなランドスケープや、幾何学的な構造の中に取り込まれた無数の人間の顔が次々と違う顔にトランスフォームしていくシーンといった、興味深い地獄表象のほとんどが完成した映画には残っていない(カットされたこのような地獄場面の多くは、1984年に出版された日本版『シネフェックス』第4号にスクリーンショットや舞台裏の写真が掲載されている)。というのも、テスト試写を行った際に「デス・テープ」の場面、とくに「地獄」の映像が持つ絶大なインパクトに多くの観客が囚われてしまい、恐怖と混沌のイメージから脱することができなかったからである。
■地獄シーンを隠さず映し出した『ジェイコブス・ラダー』
一人の男のインナートリップを描いた『ジェイコブス・ラダー』(1990)の物語は複雑な入れ子構造になっている。そのため『ブレインストーム』の「デス・テープ」の場面ほど直線的には感じられないが、トリップの各段階はやはりグロフの「意識の作図学」の4ステップに対応していると見てよい。『ジェイコブス・ラダー』の脚本を手掛けたブルース・ジョエル・ルービンは『ブレインストーム』の原案も担当している。ブルース・ジョエル・ルービンは誤解を恐れずに言えば「死」と「死後」に取り憑かれた作家で、その執着は大ヒット作『ゴースト/ニューヨークの幻』(1990)や『ディープ・インパクト』(1998)でも遺憾なく発揮されている。脚本デビューを飾った『デッドリー・フレンド』(1986)も、脳死状態に陥ったガールフレンドの脳にマイクロチップを埋め込んで再生させる物語であった。
しかし『ブレインストーム』のときのトランブルと異なり、『ジェイコブス・ラダー』の監督エイドリアン・ラインは陰惨きわまりない「地獄」のシーンを延々と映し出すことをためらわなかった。『ジェイコブス・ラダー』は端的に言ってホラー映画であり、恐怖と混沌で観客にショックを与えることは映画の目的そのものでもあったからだ。
『ジェイコブス・ラダー』(1990) 写真提供:AFLO
本稿では『ジェイコブス・ラダー』の物語と、その構造的な問題には踏み込まない。なぜなら『ジェイコブス・ラダー』は物語の構造を語ることが作品鑑賞の妙味を損なってしまうタイプの作品で、これから『ジェイコブス・ラダー』を初めて鑑賞するという読者の興を削ぐのは本意ではないからだ。そこで、ここでは本作の地獄表現について見ていくことにする。筆者は『ジェイコブス・ラダー』は今に至るも最良の地獄映画の1本だと思っているし、本作におけるめくるめく地獄表現は映像的にも、また文脈においても興味が尽きないからだ。