“伝説のタッグ”JBエンジェルス結成40周年! 還暦を前に立野記代&山崎五紀が振り返る、「青春」そのものだった全女時代
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JBエンジェルス・(左から)立野記代、山崎五紀
――それまで「フレッシュコンビ」と呼ばれていたおふたりでしたが、「JBエンジェルス」というコンビ名を聞いた時はどんな印象でしたか?
立野:会社に「いつまでもフレッシュじゃないから」ってコンビ名を変えるぞと言われて。CBSソニーから歌も出すとなり、コンビ名があったほうがいいとなったんですよね。
山崎:みんな一緒に会議で考えたんだよね。思いついた名前をホワイトボードに書き出して。
立野:でもいい名前が何もなくて、最終的にこれとこれとこれを合わせてと決まったのが「JBエンジェルス」。そのころ、C-C-BとかABブラザーズとかが流行っていたので、その流行りに乗りました。「JBA」って呼ばれようと思ったんですけど、「JB」と呼ばれるようになりました。
山崎:レコード会社にすごい人数のチームができちゃって、ヘアメイクさんが必ず来てくれるような力の入れ具合でした。髪の毛も切らせてくれないし、嫌だ嫌だと言ってても応えなきゃいけないような状況でしたね。
立野:人見知りで誰とも話さなかったりしたんですけど、19や20の小娘に大の大人が頭を下げる姿を見たら、黙ってちゃいけないんだな、一生懸命やらないといけないなといろいろな思いが生まれましたね。
――当時はドラマにもご出演されていましたし、芸能活動とプロレスの試合で大忙しだったと思います。
山崎:芸能の仕事は嫌いでした(笑)。プロレスだけできればいいや、プロレスが一番だと思っていたので、格闘技や空手もやらないって言ってました。
立野:(当時全日本女子プロレスでコーチも務めた武道家の)山崎照朝先生は、「同じ苗字だから、五紀に頑張ってほしいんだよ」ってよく言っていて。最初はヌンチャクも五紀にやってほしかったんだよね。
山崎:ヌンチャクもそうだし、大森(ゆかり)さんの空手チョップも最初は私にやれって言ってたんですよ。でも私はプロレスだけできればいいっていう感じだったんですよね。
立野:私たち、空手とかやりたくなかったんです。蹴りはクラッシュのものだって思っていたので。
JBエンジェルス・(左から)立野記代、山崎五紀
――おふたりは昭和56年入門なので、来年は出会いから45年となります。お互いの第一印象は覚えていますか?
立野:フジテレビで行われたオーディションの前に、局の目の前にあった喫茶店でたまたま近い席になったんですよ。
山崎:「あの子も受けるんだろうな」ってお互いに同じことを思ってた。
立野:いざオーディションに行ってみたら制服姿は2人だけ。こういうところって私服で来るんだ!ってびっくりしました。田舎者だから(笑)
山崎:そういうところへ行くのって制服だったよね(笑)。
――新人時代の思い出は?
立野:私はないんですけど…。
山崎:記代は早起きで洗濯するのが朝早かったんですよ。寮でみんながまだ寝ているのに、下駄をはいてガラガラ音をさせるので「朝早くからうるさいよ!」ってよく怒ったことを覚えています。
――出会いから45年ご縁が続くような関係になったのはいつくらいからですか?
山崎:1987年にアメリカへ遠征に行ってからですね。最初のころは全然仲良くなかった。同い年だし…。
立野:意識してたんだろうね、きっと。こいつには負けない!みたいな。
――WWFへの長期遠征に行くと決まった時はどんなお気持ちでしたか?
山崎:楽しみでもあるけど、ちょっとどうなるんだろうっていう気持ちもありました。
立野:仲が悪かったし、口もきいていなかったから、どうなるのかなって思ってました。
山崎:実際に行ってみると、どこも会場が日本と全然スケールが違って。
立野:横浜アリーナくらいの会場がいつも満杯だったんですよね。
――そんな中、WWF世界女子タッグ王座にも輝きましたし、メインイベントも務め、マディソン・スクエア・ガーデンでも試合を行ったんですよね。
山崎:マディソンは逆に小さく感じたんですよ。昨年ビリー・ジョエルのライブが最後だということで行ったんですけど、「あれ? マディソンってこんなにちっちゃかったかな?」って思ったんですよね。でもここでプロレスをやったんだなって思うと、思い出深かったですね。
立野:マディソンが駅の上にあるってことを知らなかったのでそれにも驚いたよね。
山崎:カルチャーショックばかりだったね。

