半世紀を経てなお輝きを増す『悪魔のいけにえ』 “地獄の入口”が導く怪奇趣味と世俗風刺――底なしの魅力を考察する
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『悪魔のいけにえ』の物語を気楽な若いヒッピーと、食肉産業の近代化で失業した昔気質の職人一家の衝突と見る論考もある。これはトビー・フーパー監督も認めていて、1972年のリチャード・ニクソン大統領の政治汚職と、1973年のオイルショック(第一次石油危機)を踏まえ、うそと経済危機に揺らぐアメリカへの風刺を遠景に置いたという。
映画は(悪名高きエド・ゲインの猟奇犯罪に着想を得ているが)うそをつく政治家に倣って、敢えて“実話”風を装い、ガソリンが乏しくなったせいで文明を享受する都会人が安全な旅路を逸れ、前時代的な田舎の悪夢を目の当たりにする。そこは全てが共犯関係にあるような血縁の濃い閉じた社会。墓場で予言を呟く酔っぱらい、給油所で操り人形のように車窓を拭く作業員。不吉な予感と病んだユーモアが入り混じり、奇妙な緊張が張り詰める瞬間だ。
若者たちは次々と“いけにえ一家”に屠られてゆくが、唯一生き残った女性は終盤で再び、ガソリン満タンの車に飛び乗り、悪夢を振り切って逃げ延びる。フーパー監督は同じ設定を用いて、旅行客が偶然立ち寄った町外れの安宿で殺害される『悪魔の沼』(1977年)や、安全なカートから降りて、カーニバルのお化け屋敷で一晩を過ごす若者の恐怖体験を描く『ファンハウス 惨劇の館』(1981年)を撮っている。いずれも異なる環境に属する者たちの恐怖交流譚だ。
肘かけに“人の手”が使われたイス 映画『悪魔のいけにえ』(1974) 写真:Collection Christophel/アフロ
同時にフーパー監督は初期習作からずっと、神秘や怪奇、超常現象に目を向けてきた作家だ。『悪魔のいけにえ』には、若者たちの車に乗り込んできた“いけにえ一家”のひとりを「ドラキュラを拾ったな」と茶化す場面がある。
確かに彼らは吸血鬼のようだ。白昼の殺戮は全てを“死”が支配する屋敷内で展開し、一家が住む敷地では時空が歪む(庭には釘で打たれた時計がある)。夜になれば彼らは無敵だ。人の皮膚で作った仮面をつけた怪人が、唸るチェーンソーを手に踊り狂い、ミイラ同然の老人が美女の指から滴る血を吸う。果てしなく続く狂気の宴。ヒロインは必死に窓を突き破り、怪奇なホラー空間から早朝の現実世界へと舞い戻る。
フーパー監督の映画では、夜を跋扈(ばっこ)する魑魅魍魎は太陽が昇ると霧散する。明るいうちは、冗談や風刺が通じる理性に満ちた日常が続く。しかし、悪魔は夕暮れ時の闇に紛れ、再び獲物を求めて蠢き始めるのだ。

