劇場版『名探偵コナン 隻眼の残像』はなぜここまで魅力的なのか リモコンが象徴するほろ苦い真実
劇場版『名探偵コナン 隻眼の残像』より (C)2025 青山剛昌/名探偵コナン製作委員会
最後に、劇中に登場する“リモコン”を通して描かれた意味について考えたい。鮫谷から着信があった夜、毛利宅では夕食時にリモコンが行方不明になる。小説版ではどれだけ探しても見つからないので、コナンが小五郎のスマホにアプリを入れてリモコンとして使えるようにしている。「んじゃあれだな! もうスマホでいいな! リモコンなんかいらねーな!」と酒に酔いながら景気良く話す小五郎。しかし、リモコンは映画の最後にどこからともなく見つかり、毛利宅にまたいつも通りの日常が戻ってくるのだった。
一見唐突な出来事のように思えるが、このリモコンは2つのものを暗喩している。1つは小五郎自身だ。普段から“眠りの小五郎”としてコナンに眠らされて推理を展開する彼だが、無くなったリモコンが象徴するのは本作でコナンに“操られない”小五郎である。だからこそ「リモコンなんかいらねーな!」のセリフの意味が「もうずっと俺が主役でいいな!」の意にも捉えられて面白いのだ。しかし、残念ながらリモコンは最後に戻ってきて、再び小五郎が“眠りの小五郎”に戻ることを示唆している。
それと同時にリモコンが表しているのは本作が描く、1つの“真実”である。スマホでもういい、と言う小五郎にコナンは以下のように答えた。
「ダメだよ、アプリで代用しただけなんだから。ちゃんとリモコン探した方がいいよ」。
これはつまり、どれだけスマホがリモコンの“フリ”をしてもスマホであるに変わりはないと言う意味である。この主張に呼応するのが、劇中で取り上げられる「証人保護プログラム」なのだ。大友隆のように、姿や名前を変えても過去の罪から逃れることはできない。そのため彼は鷲頭隆として、御厨が知る彼のあだ名をつけた炭焼き小屋で、復讐を受ける日を待っていた。一方、刑務所で「俺は今こうして償ってんだ! 俺を売った鷲頭と違ってな!」と叫んでいた御厨。しかし、諸伏高明から鷲頭を殺そうとしていたことを指摘されたことに対しては「ああ、奴を殺したかったよ!」「ここを出たら絶対、殺しに行ってやるからな!」と口走った。先に彼の口から出た“償い”が、その後の殺意で何の意味もないものだということが分かる。つまり、罪を償う“フリ”をしたところでその人間の本質は何も変わらないのだということが、リモコンとスマホのやり取りになぞらえて描かれているのだ。
本作では“フリ”をする人物が多く登場する。窓際族のフリをした警視庁刑事部刑事総務課の鮫谷。東京地検の検察官のフリをした長谷部陸夫。名前と顔を変えて別人のフリをした大友。銃を撃っていないフリをした小五郎。親切な世話役のフリをした林。その誰もが、最後には正体を明かす。そんな『隻眼の残像』は、「やはり人はそんな簡単に変わることができない」という、歳を重ねれば重ねるほど痛感するほろ苦い“真実”を映し出す作品として、その大人向けな味わいが魅力的なのだ。
(文:アナイス/ANAIS)